今日の一言 その242「死には意味がない」
おはようございます!!
本日もお越し頂きまして、ありがとうございます!
一言シリーズですが
浮かんだ言葉を、ちょこっと書いてみます
「
死は死。
花が咲けばやがて枯れるというのと同じ。
死と宗教というのは、ある意味、セットになっています。
死への恐怖があるから、宗教が成立するというところがあります。
人の行動は、究極的には、愛によるものか、それとも恐怖によるものか。
そして、恐怖の最大のものは、死への恐怖。
死への恐怖は、生きている人間である以上、必ずあるもの。
だから、宗教は死を扱い、そして、数千年の時を超えている。
ただ、
死に対して恐怖があるのは当たり前で、かつ、必要なものだとも思っています。
死への恐怖がなければ、自殺してしまう人がさらに増えるかもしれませんし、人を殺してしまう人も増えるかもしれません。
宇宙に不要なものが何ひとつないのだとしたら、死への恐怖も、必要だからこそ、本能として持っているのだと思っています。
死は宗教とセット、しかし、仏教の開祖:釈迦本人は、実は死後の世界についてただの一言も語っていません。
肯定も否定も何もしていない。生きる教えしか説いてません。
だから、仏教が死後の世界を扱うようになったのは、後世の人たちの創作なのです。
釈迦の教えの中に、『毒矢のたとえ』という話があります。
もし、毒矢が刺さって苦しんでいるなら、
「なぜ、自分は毒矢に射られたのか?」
「この毒矢の材質は何なのか?」
「毒が身体を回ってしまったらどうなるのだろう?」などと考えている暇に、
まず、毒矢を抜きなさい
「死んだらどうなるのか?」
「死後の世界はどのようなものなのか?」
「魂というのは存在するのか?」などと考えている暇があったら、
生きている間に、やれることをやりなさいということ、です。
死は、人生で、唯一、確実に訪れることが決まっている珍しい出来事です。
どうなるか分からない人生の中で、「いつかは、必ず、死ぬ」ということだけはハッキリしています。
確定していることを心配しても仕方がありません。未確定の「今日」を一生懸命に生きる。
死への恐怖は必要だからこそ本能としてあります。
そして、その恐怖がある人は、人として大きな間違いを犯さないでしょう。
死への恐怖を、乗り越えることや、なくすことを考えるのではなく、あるのが前提で、上手に付き合っていく。
そして、
今を生きる
わたしたちの人生というのは、「今」の連続です。
「今」、「今」、「今」の連続が、人生です。
今、できることが何かあるなら、今、何かをやりましょう
今、自分を幸せにできることが何かあるなら、それを、今、やりましょう
今、他人を幸せにできることが何かあるなら、それを、今、やりましょう
今、社会を幸せにできることが何かあるなら、それを、今、やりましょう
学問とは、今をより良く生きるためにするものです
今をより良く生きる学びを増やしていきましょう。
」
今日も素晴らしい1日を!
楽しんでまいりましょう!
ではまた♪